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海外旅行紀行・戯言日記

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ドイツとゲルマン

1993年発行の手塚富雄著「増補 ドイツ文学案内」の序説に次のような説明がされている。

「ドイツ国」とか「ドイツ語」等における「ドイツ(Deutsch)」と言う言葉ないし意識が発生したのは8世紀末で、「ドイツ語」で書かれたドイツ文学が興った時期でもあった。有名なカール大帝が中西部ヨーロッパの主導権を取り、ローマ法王から西ローマ帝国の帝冠を受けたことから、「ドイツ(Deutsch)」と言う意識がゲルマン族に生まれたと言われている。
それまでは地中海に育ったラテン文明の勢力下にあったヨーロッパ地域に、そのような意識が、他に対して自分と言う自覚を押し出して来たのである。ドイツという言葉は、語源的には「民族の」という意味だと言われている。よその人達では無くて、自分の民族を指したのである。即ち、在来の世界に対してゲルマン族の意識独立が行われたのである。

それに対して「ゲルマン(Germanisch)」と言う言葉はどうかというと、本来の意味は今も十分には解明されていないが、兎に角これはローマ帝国の人達が、外部からこの民族に対して与えた名称であった。しかし、そこには統一的な姿も意識もなく、フランク族、ゴート族、ブルグント族等々と、多くの種族に分かれていたのである。ローマ大帝国の版図が広がるに連れ、古来の信仰や思想では到底一般大衆を押さえることが出来なくなり、キリスト教を国教とするに至る。又4世紀の末頃からゲルマン民族の大移動と言うものがあって、それが数世紀続いて、嘗てのローマ帝国の領域は、実質的にゲルマン民族の生命力で満たされる様になった。そして8世紀、カール大帝のローマ帝国皇帝の即位を契機に、フランスを中心とするラテン文明に対抗して、西欧文化圏に入り込んだのである。

ただ、ドイツは、ローマ帝国の後継者であるという意識が強すぎたため、諸王侯は世界統一の理想もしくは夢想に走りすぎて、しばしば外征に従事し、内政の上で足元を固める点では、ラテン文明圏に対して遅れを取ってしまった。これは後々までドイツが背負った宿命の一つとなってしまった。

現在ドイツ人は自分をドイツ人と呼び、イギリス人等は今もそれをGermanと言っているのは、内からと外からの掴み方を受け継いでいるのである。又、ドイツ的に対比させてゲルマン的と言う時には、カール大帝以前、キリスト教との融合以前の状態に根ざしている民族的性格を指すものと考えて間違いはない。


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